60歳からの知恵と体験の交流誌「さすが&されど」。シニアが主役の投稿誌です。http://www.hongopub.com/

2010/4/27

〈お好みエッセイ〉奇跡のめぐり会い  シニア


〈お好みエッセイ〉奇跡のめぐり会い/牧野恵子

 地元の旧家で有名な「おもだかや」さんに、一人の女性が展示品を見に立ち寄り、「これと同じ鮎の絵を持っているのですが、これはどなたが描かれたのですか?」と尋ねられた。奥様が「ああ、その絵は、祖父が教えて描かれた名古屋の籏さんという方で、郡上出身であちらで手広く事業を営み、趣味で描かれた絵だと思いますよ。そこの『団子家』さんは娘さんで、本など書かれたりで頑張っておられますよ」と教えると、
 「エッ、あの『団子屋』さん、娘さんなんですか?」と驚き「その方と連絡できますか?」と。そして、かかって来た電話が、私にとって奇跡の巡り会いの始まりだった。
 その夜、店の横で会うことにした。40代と思われる女性は前に座り、私の顔を見つめ「すいません。私もあなたのお父さんの娘です」と一言。私は目が点になった。息が止まる思いで「何をバカなことを言ってるんですか! 私をからかっているの」と怒ってしまった。
 「何を言われても、私も健二の娘です」という。見開いたままの目で見ている私。なんと父の仕草に似ているではないか! 頭の中が真っ白になり、自分がどうなってるのか、動転しているのがわかった。
 「何も聞いたことないよ。どうなってるの、ウソでしょう! 本当なら早く早く話して」と矢継ぎ早に聞いた。すると、中学3年ぐらいまで出入りしていた父は、自然に遠のき、来てくれなくなった。それから、母子2人でひっそりと頑張って暮らしてきた、という。驚いたことに認知はしていないとも。それを聞いた私は思わず手を握り、顔を伏せて泣いてしまった。なんと、私より寂しい人生を送ってきたこの子に、何の躊躇もなく涙が出てしまった。
 「それじゃ、同じ父の血が流れている姉妹じゃないの」と髪をなでてやりながら、不思議で奇跡の出会いを大切にしようと話し合った。とたんに、互いの身体に流れる血が一つになるのを感じ、細かく話さなくとも父の話しで血のつながりを感じ、私の人生、なんと不思議なことばかりと、その夜は眠れなかった。
 「フィーリングが合わなかったら名乗らず帰るつもりだったけど、あまりにも父に似ていてふっくらしていたので安心した」と言った。私も、父と同じ仕草をするのを見つめながら、DNA遺伝子とはこのことかと思った。
 父が亡くなったことを知り、その20日後に再会し、八事に眠る父のお墓参りに行くこととなり、母親のA子さんと会った。
 「ごめんなさい。許して下さいネ」と言うA子さんは70歳。私と8歳違いなので、話しは私の方がよく通じた。私達を許して下さり、ありがとう、と、何度も言うA子さん、こんないい妹が出来たことがうれしくて、よく頑張って生きてこられたことに敬服しないではいられなかった。
 別れた後の父の様子など、今まで知らなかった父の話は尽きなかった。そして、悲しい事件が多い昨今だが、これから先の方が短くなった人生を、より仲良く助け合おうと話した。
 こんな奇跡的な巡り合いは、きっと、七回忌を迎える父が赤い糸で結んでくれたのだと信じている。苦しく悲しい思いもした妹は、47年間の重みがスーッと抜け出した思いで、生きて来て良かった、と泣いた。なぜ、こんなに悲しい思いをさせてしまったのか。父の過去をめぐる先妻後妻と両方の子ども、手広く大きくなった事業との狭間で男の身勝手から来る女性関係。どこにでもあるようなことだけども、なぜ、認知してやらなかったのか? と、それだけが恨めしく思える。
 この出会いを巡る2人の思いは、私に託した父の最後の頼みだったのか? 無責任にも見捨てた償いを、私にいざなうように縁を結んでくれたのだろうか。走馬灯のように回るこの思いは、今の私にまた一つの試練を与えたのか。忙しさと、子育て(孫達)とで挫けそうな時もあったけど、また、身体の細胞が元気になった思いがする。
 「お姉さん、このように呼べる人を私の人生に引き合わせて下さった全ての縁に感謝しています。その縁の全てが不思議で奇跡です。縁を信じ素直に心を委ねて良かった。お姉さんに会って実感しました。お姉さんの涙と手の温もりにお姉さんの全てを感じました。出会うべき人には出会うべき時に出会える。今、新たな人生のスタートのように感じます。私は確かにいます。お姉さんもいます。お互いが過ごして来た年月から紡ぎ出して来た真理も確かです。これから私達のファイトで、最高の人生を目指そう。もう寂しくないぞ」とメールが来た。父が姿を変えて出て来たように思われて仕方ない、うれしい。奇跡の出会い、新しい人生の始まりです。
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2010/4/23

〈体験レポート〉耐震・省エネ住宅を自力建築  シニア
耐震省エネ住宅を自力建築/高橋和章
 引退して自由な時間ができた6年前に自宅を建て替えた。1年かけて自分で設計し、さらに1年がかりで半自作した。費用は住宅会社に注文するときの6割だった。
 ル・コルビュジェは「家は住むための機械である」という言葉を残した。近代建築の三大巨匠の一人といわれ、日本では東京国立西洋美術館を設計した。彼の設計した世界中の建物群を世界遺産に登録する動きがある。
 住宅を「機械」として設計するのであれば、私の現役時代の技術が使える。目標を耐震性、保守費不要、冷暖房費最少の3点に絞った。

一、耐震性
 大地震が発生したとき、周りの家がすべて倒壊しても、自宅は無傷で残る強度を目指した。
 阪神淡路大震災では、住宅の倒壊で総死者の8割である5千人が圧死したという。倒壊した住宅はすべて日本式の在来建築だった。一方、アメリカ式のツーバイフォー(2×4)工法の住宅は無傷だった。そこで、我が家はこの工法に決めた。
 建築基準法で耐震強度を決める重要な要素は、壁の総延長距離である。壁量は基準値の1倍以上が必要とされる。私は3倍の強度になる壁量にした。
 次のポイントは基礎である。多くの地震被害では、外観が正常に見えるのに内部壁がはがれて建て替えが必要になっている。これは基礎の破壊が主な原因である。我が家は砂地盤なので、杭による地盤補強はコストがかかり過ぎる。そこで十分な鉄筋量とコンクリート厚みを持つ箱を作った。砂の上に浮かぶ船のようなイメージである。
 この2つの対策により、巨大地震で家が揺れたり傾いたりしても、地上に置いた段ボール箱のように壊れないはずだ。家が傾いたらジャッキで水平に直せばよい。残念ながらこの皮算用は、巨大地震が来ないと証明できない。私が生きている間に確認したいものだ。

二、保守費不要
 年金生活者にとって、ペンキの塗り替えや外壁のコーキング材の打ち替えなどの費用は重荷になる。50年間なにもしないで済む方法がないか、インターネットで調べた。何と30年前にトタン板(亜鉛メッキ鋼板)の革新が起きていた。アメリカの製鉄会社が発明したガルバリウム鋼板だ。アルミと亜鉛の合金をメッキしている。寿命は従来のトタン板の3〜5倍あるという。価格はトタン板の1割増である。これを屋根と外壁材に採用した。窓はアメリカから輸入した。窓枠は断熱性のよい塩化ビニル製で2重ガラスの製品である。
これで50年間は手入れ要らずの筈である。この結果も、私は見届けることができない。

三、冷暖房費最少
 若いとき、老後の生活を夢想したことがあった。冬は沖縄の別荘で暮らし、夏は北海道の別荘に移動する。残念ながら平凡なサラリーマンで終わったため、夢のままだ。その代わり、自宅内にこの温熱環境を実現した。冬は室温22℃一定・湿度50%、夏は窓を閉め切って冷房で暮らしている。これに必要な冷暖房費は年間5万円である。年金生活者にとって負担の少ない金額である。
 総2階40坪の家全体の冷暖房は、石油ストーブではなくエアコンにした。エアコンのCOP(効率)は6倍以上あり、日本製エアコンの効率は世界最高である。COP6倍とは100ワットの消費電力で600ワットの熱量が出せることを意味する。コストは灯油の3割で済む。我が家は10畳用のエアコン1台だけで家全体を冷暖房している。
 実現の秘訣は、基礎コンクリートの外側を断熱材で覆い、床下にエアコンを設置することだ。冬は1キロワット時・10円の夜間電力でエアコンを運転して基礎に蓄熱している。電気料金の高い昼間はエアコンを動かさないで、基礎コンクリートに蓄熱したエネルギーをゆっくり放熱させて室温を維持している。この方法は日本で最もランニングコストが安いと思う。1階の床全体は室温よりわずかに暖かい。風呂・トイレも含めて冷たい床はどこにもない。エアコンを床下に設置すると、エアコンの送風が人体に直接当たらないから快適である。毎日、基礎コンクリート床にバケツ1杯の水を撒いて、湿度を50%に保っている。3台使っていた加湿器は全部捨ててしまった。
 1年間の設計期間内に書籍やインターネットで沢山の情報を得ることができた。モノ作りが得意な日本のはずだが、国際競争にさらされない住宅産業はひどく遅れたままだ。日本の住宅価格は、アメリカの2・5倍も割高である。しかも、住宅寿命はアメリカの半分もない。日本のサラリーマンはアメリカ人の5倍の住宅費を払っていることになる。私が若ければ、アメリカ並みの価格の住宅を全国に広める行動を起こすのだが……。  
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2010/4/19

〈闘病レポート〉人工関節置換手術の体験  シニア


〈闘病レポート〉人工関節置換手術の体験/曽田 武

 私は昨年11月、左膝人工関節置換手術のため入院しました。手術は2回目(右膝手術)であり、手術台に乗ったら、すぐに分からなくなり、病室に帰って、声を掛けられ初めて終わったことを知りました。
 術後2日間は車いす、3日目からは歩行器で廊下を歩き出しました。リハビリも順調に行き、11月28日、計27日間の入院で帰宅しました。
 今回は手術後に不整脈が起き、病院で緊急に処置して治まりました。一昨年8月、前回の右足手術の時も不整脈が起きていたので、不整脈を治すカテーテル・アブレーション(電気焼灼。不整脈の心筋などを高周波で焼き切る)手術をやらなければならないと言われていました。
 「足の手術と一緒に出来ないか」と言ったら、先生に「心臓の手術は命が掛っているのだ。そんな簡単に考えたら駄目だ」と叱られました。
 こうして、新年早々1月16日に、またも2回目の入院をしました。私の場合、1人では生活できない妻の問題を解決しなければ入院出来ないのです。妻のショートステイ先を探し、1週間の入所を決め、入所させました。
 私はその翌日に入院し、心電図を取ったところ、先生に「心臓のポンプの送る力が弱って脈が下がっている、ペースメーカーを入れる手術をやらなければならない。よかったら、18日にカテーテル手術をし、20日にペースメーカーの挿入手術をやりたいが」と言われました。
 予想もしていなかっただけに、ビックリするが、やらざるを得ません。
 毎日朝の起床時に、血圧と脈拍を取り続けて3年目になります。ここ数か月は脈拍が毎分50以下になっていました。私は「心臓が強いから、多く送らなくても良いのだろう」と全く呑気に考えて、脈拍が少ないのは心臓が良い証拠だと思っていました。自分の愚かさに呆れました。標準は毎分60〜70だそうです。
 手術が1つ増え、入院期間も長くなるので、妻のショートステイの入所期間も延ばしてもらいました。
 2つの手術も無事に終わり、1月27日退院しました。11月から大きな手術を3回もやり、今、足と心臓のリハビリの真っ最中。両膝は手術で痛みは全くなくなりましたが、まだ右膝は無理が出来ません、半年も経てばすっかり良くなると思います。
 今一番困っていることは、100メートルも歩くと呼吸が苦しくなり、先に進めず、一休みしなければなりません。そのことを先生に話したら、「そのうちになじんで@たらよくなるだろう」ということでした。いつまで続くのか不安です。
 ここ3か月余りで一番割り≠食ったのは妻です。すべて私のせいで、ショートステイに2か月半も行く羽目になりました。朝、服を脱いだり、着たりすることが大変な妻は、朝早く起き、2時間もかけて8時の朝食に、やっと間に合わせたと、こぼすことしきり。
お風呂は4日置き、衣服は洗濯機に何でも入れ、乾燥機も一緒に乾燥するので、良いものも滅茶苦茶になってしまった、と。
 「あんたのお陰で、苦労するのは、みな私なんだから、今度はどこが悪くなるの?」と悪態をつきます。

 私は、手術後にも新しい問題で悩みました。
 入院中に同じ手術をした2人の方の住所を聞き、度々その後の様子を聞きながら自分と比較してみました。お二方は何事もなく喜んでおられました。
 私は痛くないのですが、歩く度に「コツ、コツ」という小さな音が出る時があり、「手術の失敗ではないのか?」と疑問を持ち続けました。
 先生に「この音は何ですか?」と度々聞きましたが、先生は膝に触って「大丈夫だ、筋肉が付いたら治る」と言うばかりです。
 「左膝の手術をどの病院でやったらよいか」迷い続けました。
 セカンドオピニオンをやりました。 先生はレントゲンを見たり、膝に触って「上手に出来ている、音がするのは、金属とお皿が当たる音で、何でもない、私がやっても音がすることもある」「心臓との関係もあるので、そちらの病院でやった方がよいのでは」と言われ、私は決心が付きました。
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2010/4/14

〈交流ひろば〉はいかい老人  シニア


〈交流ひろば〉はいかい老人/渡辺貢一

 今年の1月半ばのこと、町内のAさんが、家の前を一見、はいかい風≠ノとぼとぼ、ふらふら≠ニ歩いている老婦人を目撃。Aさんは家の前の雪はねに精を出していたが、20軒ほどの街区を一回りしたのか、例の老婦人が別の方角からたどたどしい¢ォ取りで戻ってきた。「どうも、様子がおかしい」と感じたAさんは「お散歩ですか?」と声をかけてみたが応答はない。よく見ると表情はこわばり、目の焦点もさだかでない。これは(はいかい老人)に間違いないと判断し、「お宅にお帰りなら、ご一緒しますよ」と声をかけ、寄り添って歩きはじめた。
 ときどき「お宅はどこなの?」と聞いても、返事はないまま歩いて行く。Aさんは「これは、私ひとりではどうにもならない」と不安を感じはじめたが、あいにく通行人に恵まれず。そのうち、町内会の会長である拙宅の前にきたので、ドアホンを押したが、私も家内も留守で不通。そのうち、老婦人は急に道を右折した。「お宅はここを曲るの?」と聞いても返事はないまま。右折した通路の突き当たりは、認知症の患者が集団生活しているグループホームだった。
 老婦人はグループホームに向って進んで行く。Aさんは、てっきりこのグループホームの住人と思い込んでしまった。ドアホンを押すと、ケアワーカーがキーロックを解いて「どなたですか?」。老婦人は押し退けるように一気に室内に入っていった。Aさんは「ほっ」としてケアワーカーの戸惑いに気もつかず、「はいかいしていたのでお連れしました」と伝えて、雪はねの現場に急いで戻った。
 一方、グループホームでは、ケアワーカーさんはてんやわんやだったようだ。専門家だから扱いは慣れたものだが、「この人、どこのだれかしら?」。
 町内会とグループホームは2か月に1回のぺースで「運営推進会議」を持っているから、複数の役員とは旧知の間柄。電話で呼ばれて3名の役員がグループホームに参集する羽目になった。でも、どの役員も、その老婦人がどこのどなたか全くわからない。みんなが右往左往するうちに、グループホームから50メートルほど離れたところにある、3階建てのアパートの住人と判明して一件落着した。
 老婦人は80歳代前半で、80歳代後半の配偶者と同居しており、しかも、50歳代で独身の息子さんとの3人家族。老婦人は配偶者が居眠りしているうちに外出したらしい。普段は近隣とのお付き合いもなく、外出もあまり多くないご夫婦だったようだ。そして、はいかいは初めての経験だったと聞いた。
 町内会では一昨年から町内か、それに近い所に子息兄弟姉妹がいないという前提で、
 @70歳を超えた独居老人
 A夫婦とも70歳を超えた2人世帯
 B70歳未満でも病弱な独身者と2人世帯
をリストアップし、「見守り活動」の準備を始めている。が、この世帯は息子さんが同居していたので、リストアップの対象から洩れていた。
 その上、想像していた以上に、認知症を含めて問題が潜在していることを知らされたが、一方では、「見守り活動」を拒絶する人も少なくないというのが現実である。町内会が背負う老人(弱者)対策の大切さ、力量をはるかに上回る責任。住民自治を考えると、身がすくんでしまう。
 安全な町を作る、住みよい町を作る、清潔な町を作る、仲の良い町を作るなどなど、町内会のこうした役割は、どうやって果していけばよいのだろうか。
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2010/4/13

〈特集@面白きこと〉「別れ」が消えた  シニア


〈特集@面白きこと〉「別れ」が消えた/橋之口 望

 世の中、すべて軽く過ごすようになってきて、ケータイも替えるもの、という風潮になってきた。物を勿体ないと思う気持ちがなくなってしまったからである。
 どのくらいの期間、使って替えるのか聞くと、若い人は2か月だそうだ。これを聞いて思い当たることがある。最近の若者は恋人を2か月で取り替えるようだ。こんなに短いと恋人とは言わないのではないか。昔ならステッキ・ガールとか、ステッキ・ボーイと呼んだ。今やケータイも恋人も、出会いとか別れではなく、「使い捨て」の軽い気持ちのものらしい。
 昭和45年頃までは、転勤時期になると、東京駅の新幹線ホームには見送り人が扇形になって発車を待っていた。何回も転勤した私も、見送られたり、見送ったりした。ホームの「別れ」は組織のセレナーデだった。そんな光景はいつの間にか消えてなくなった。
 近頃、都会の人は別れなくなった。また別れる人を送らなくなった。振り返ってみると、この1年間に、何度、駅へ行って、旅立つ人を送っただろうか?
 昔、口ずさんだ「海軍小唄」はこう歌う。
♪汽車の窓から手をにぎり
 送ってくれた人よりも
 ホームの陰で泣いていた
 可愛いあの娘が忘れられぬ
 トコ ズンドコ ズンドコ♪
 今時、こんな可憐な乙女の姿はトンと見掛けない。別れは、送る方も送られる側も、いささか気分の昂揚がある。別れの、しみじみとした人情を殺した犯人は誰か? 開かない窓よりもケータイが主役である。
 さっき別れた人とでも、ちょっと親指を使えば、その人にメールを送る。すぐ返信がくる。彼らには別れはない。駅まで出向いて、泣いたり手を握ったりするのはアホらしいのか。人は常に繋がっている。ケータイは五官の一つになって人と人とをガッチリ繋いでいる。
 別離と孤独がなくなって行くのはコワいことだ。
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