60歳からの知恵と体験の交流誌「さすが&されど」。シニアが主役の投稿誌です。http://www.hongopub.com/

2010/6/24

〈悠々亭日常〉  シニア


〈悠々亭日常〉英会話教室の輪/岩本道子

▼3月28日(日)午後から、英会話教室のクラスメートのコンサートに行く。演奏者は6人。特に彼女のスプリングソナタ≠ヘ素晴らしかった。外は冬のように寒かったが、春を満喫した気分になった。
▼4月18日(日)大学の同窓会埼玉県支部の今年度の総会に出席した。現役の時にはなかなか出席できなかったが、リタイア後に参加している。今年は私の地区が担当で、私も役員ではないが準備段階からお手伝いをし、弁当、茶菓の係など忙しく立ち働いた。
 午後は樋口一葉≠ノついての講演会があり、大変興味深く、あっという間の2時間だった。一般の方にも解放されたので、大勢の参加があり、満足していただけたと思う。
 このような文化事業は先輩方のご尽力で以前から運営されている。私も美術館めぐり≠フバスツアーに参加したのをきっかけに、2年前から英会話教室に、文字通り七十の手習いで劣等生ではあるが、楽しく学んでいる。
▼4月19日(月)草笛光子さん主演の6週間のダンスレッスン≠フ観劇に出かけた。これも英会話教室の級友のお誘いで、今春から観劇サークルに加わったのだ。草笛さんは確か私より年長のはず、何と若々しくきれいなこと。老いや差別、病気、介護など、人生の様々なことが、楽しい中にも深い内容だった。
 英会話教室は同窓生以外にもオープンで、ピアニスト、画家など。また、娘のように若い人などにいろいろ刺激をいただき、励まされている。
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2010/6/22

〈悠々亭日常〉  シニア


〈悠々亭日常〉海外旅行プラン/中原寛子

▼3月23日(火)愛犬JOYの介護もあり、ここ2年は海外旅行は控えていたが、JOYもこの1月に17年の生涯を終えた。夫婦でヨーロッパ旅行が出来るのもあと数年と思い立ち、今日、「ロシア遺産紀行9日間」を申し込んだ。
▼3月29日(月)モスクワの地下鉄で同時多発テロのニュース。1件は18歳の少女が爆薬を身体に巻き付け自爆したという。モスクワの地下鉄は高官用の緊急避難場を兼ねているので、堅牢かつ豪華で大理石張りの床にシャンデリア付き。以前は観光スポットになっていた。
▼4月10日(土)スモレンスク空港でポーランド政府専用機墜落。カチンの森70年追悼式典に向う大統領夫妻以下97名全員死亡。地下鉄テロだけでもショックで、やっと気を取り直して『大黒屋光大夫』を読み終えたというのに…。
▼4月14日(水)ロシアは諦めてイギリスへ行くことにした。希望のコースの6月分は満席で、辛うじて5月24日発に4席空きがあった。ソレッとばかりに申し込んだ。――ここまでは午前中の話し。夕方のニュースで驚いた。アイスランドの火山が大噴火。
▼4月15日(木)火山灰は上空11キロに達し、風に乗って東南に流れている。火口から噴き出す噴煙をTVが繰り返し放映。ヨーロッパ各地の空港が閉鎖されていく。
▼4月17日(土)満開の桜に41年ぶりの雪が降る。ヨーロッパ28か国で空港が閉鎖され旅行は絶望的? 噴火関係のニュースを追いかける。
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2010/6/18

〈悠々亭日常〉  シニア


〈悠々亭日常〉ふろしき研究会/五十嵐和子

▼4月10日(土)桜花爛漫の芝・増上寺へ。午前9時40分到着。今日は、ここ増上寺を会場にしての「ふろしき研究会」(京都)の「ふろしき包み方集中講座」を受講するためである。毎年、京都、東京の2会場で開講されているが、参加は初めて、ドキドキしながら席に着いた。
 ふろしきの持つ美しさ、やさしさに魅かれ、「ふろしき研究会」の会員になったのは4年前。会を主宰する森田知都子さんが本日の講師である。
 NHKの「おしゃれ工房」や「美の壷」に出演し、ふろしきを通じ文化を伝え、新しい包み方を提案している方だけに、終始、うなずくことばかりだった。
 会場には、日本伝統の文様、鳳凰や花鳥風月、歌舞伎に由来するふろしきが展示され、びんやボールなど、それぞれの形に合った美しい包み方がつぶさに手に触れられ、役立った。「ひとつ結び」と「真結び」をうまく組み合わせ、バッグになったり、リュックにもなったり、と大変身。何度も使えるから、環境にもやさしいすぐれものである。
 ふろしきのすばらしさを各地域ですでに広め活動している方が、新潟や静岡からも参加、熱心に様々な包み方を体験した。
 日本人が、長い間育んできた伝統あるふろしき、心を温かく包み込んでくれるふろしきに囲まれて過ごした一日。
 桜と東京タワーを背に、心地よい緊張感を味わいながら、増上寺を後にした。
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2010/6/14

〈交流ひろば〉  シニア


〈交流ひろば〉
 毛筆「5万字書字」を終えて/根本祐一

 手書き離れの時代ですが、私は、世の中のすべての漢字を書いてみようと決心し、『大漢和辞典』に挑戦しました。有史以来現れた漢字は10万ともいわれています。まず、最大親字数を収録した辞典をリサーチしました。その結果、中国の『当今世界収漢字最多的辞典』の『中華字海』の8万字が最も多いことがわかりました。
 『中華字海』は、大使館、輸入書籍店を調べてみましたが、絶版で入手できませんでした。日本では、諸橋轍次著『大漢和辞典』の5万字が最大であることがわかりました。因みに、私たちが日常よく目にする常用漢字で2千字です。『大漢和辞典』の方は偶然全15巻を手に入れることができました。年間1万字、5年計面でスタートしました。
 「1字は1回、書き直しはしない」ルールで最大64画から1画に向けて書き始めました。始めてすぐに、無謀な挑戦であることに気付きました。辞典の活宇の大きさは新聞の活字程度です。これを半紙に16文字(1文字5センチ程度の大きさ)に書きます。とにかく画数が多いため、手持ちの拡大鏡を2個重ねても字体が判読できない文字が次々と出てきます。因みに、手持ちの『広辞苑』の最大画数は29画です。半紙1枚に30分以上もかかってしまい、文字を書くことよりも、まず字体の確認作業に想定外の時間を要することがわかりました。
 スタートから見たこともない圧倒的な文字群に、書けば書くほど逆に文字の山が大きく見えて、早くも挫けそうになってしまいました。書字のルールは「1字1回」のほかに、辞典の活字をそのまま筆写せず、できるだけ伝統的な楷書の書きぶりに翻訳して書くように努めました。そのため「活字」を「筆文字」に変換しながら書く作業にも時間がかかりました。
 長い道のりの中には苦しい時もありましたが、毎日、筆を持っていると、至福の時間に出合うこともありました。時々ですが、筆を持った瞬間無心になり、書くことに集中でき、心静かな時聞を楽しむことができました。いまでは、一日の欠字が気になり、毎日筆を持つことが習慣となり、書くことが楽しくなりました。
 『大漢和辞典』に挑戦していろいろな文字と出合い、いろいろな発見がありました。5万字を完筆した瞬間、ゴールにたどり着いた安堵感に満たされました。また、手書きで書きあげた達成感と充実感を味わうことができました。わたしたち専門家でない者にとって、書はあくまで趣味の世界です。上手下手や字を競う書道から離れれば、書は本来「書く」だけで十分楽しいものです。
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2010/6/4

〈探究レポート〉  シニア


〈探究レポート〉
 なぜか人気の「朝鮮戦争」展/水埜信行

 横浜・関内の日本新聞博物館では、企画展「朝鮮戦争から60年―戦場の記録」写真展を開催している(6月27日まで)。私はここで長いことボランティアをしているが、いつもの企画展とは際立って雰囲気が違うと感じている。
 それは年配者が殆どで、それもお一人が多い。200枚余のモノクロ写真に食い入るように見入られ、当時を回想している様子である。会場を出がけに「ありがとう」と低頭されたり、様々な思いを口にされる方も珍しくない。多くが70代前後の皆さんに、朝鮮戦争が与えたインパクトの強さを、改めて驚いている。私も、思い出がいくつかある。
 朝鮮戦争は、1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮軍が韓国との軍事境界線、いわゆる38度線を越えてきたことに端を発した。不意を衝かれた韓国軍は、あっという間に釜山付近まで追い込まれた。韓国軍は、その後、アメリカを中心とする国連軍の援助を仰ぎ、押し返したものの、今度は中国が北朝鮮軍に加勢をして、一進一退、アコーディオン戦争ともいわれた。53年7月にようやく休戦協定が交わされ今日に至っているが、朝鮮半島のほぼ全土が戦火に包まれ、南北に分断された同じ民族同士が血を流した悲惨な戦争である。
 戦争が勃発した時、私は小学5年生。絵に描いたような野球少年で、雑誌「野球少年」を毎月、むさぼり読んでいた。その中に、朝鮮戦争の戦況が毎号詳細に掲載されていた。誰が書いていたのか記憶はないが、韓国・国連軍側に立って書いてあるので、北朝鮮・中国軍に対しては敵対した叙述である。戦況は毎号変わって行く。私は、韓国・国連軍側が不利な状況の時にはハラハラしながら読み進み、逆襲に転じて戦果を上げた時には、快哉を叫んでいたものである。
 その頃は一度読んだら、忘れない。戦争で使われたバズーカ砲やナパーム弾、第8軍司令官アイケルバーガー中将など固有名詞は、今でも覚えている。将官の星の数は、マッカーサー元帥が5つで、中将が3つはいいとして、1つ星が、少将の下の、日本にはない「准将」などと初めて知って、得意がってもいた。
 ひとつの光景を思い出す。未だあった焼け野原で友だちと野球をしていた時、ジープが止まり、若いGIが2人降りてきた。思わず身構える我々に、彼らは手振りで仲間に入れろ、と言っているようである。一緒に遊んだ。笑顔でバットを振る彼らは、実に楽しそうであった。チョコレートをくれた2人は、別れがけに確か「コーリア」と言っていた。韓国に向う束の間の息抜きだったのだろう。
 父は、時たま、映画に連れて行ってくれたが、私の目的は、「ためになる」文芸作品ではなく、その前に数分間映されるニュース映画だった。そこでは、必ず朝鮮戦争の生々しい状況が映し出される。固唾を呑んで見入った。乾いた早口で「……であります」と語る、竹脇昌作さんのナレーションが印象的だった。
 マッカーサー元帥が、作戦上の対立からトルーマン大統領に、国連軍総司令官を解任された時は驚いた。日本では神様みたいな人だったから。上には上があるんだな、と思った。
 そんな無邪気な年代だったから、日本の奇跡ともいわれる経済復興が、この戦争で生じた「朝鮮特需」に負うところが多かったなど、知る由もない。日本が、アメリカ軍からの武器の修理や製造、軍用毛布や土嚢用麻袋などを大量に受注し、工業生産は大量に伸びた、朝鮮戦争で、火事ドロ的に日本経済が息を吹き返したとは、後年、教えられたことである。「金へん景気」とか「糸へん景気」の意味も、その頃は知らなかった。
 終戦前後、列強国により、日本の国土分割が検討されたともいわれる。米ソの戦略的思惑から分断された国は、朝鮮のほか、ドイツ、ベトナムなどあるが、もし、日本もそうなっていたらどうだったか? 朝鮮の悲劇は、対岸の火事では決して済まされなかったろう。そこに思いを巡らすと、この朝鮮戦争は、私にはますます身近に感じられる。
 写真展で初めて知ったが、朝鮮戦争での死傷者は、戦闘要員もさることながら、市民は南北合わせて300万人、避難民は500万人というすさまじさである。会場には、戦闘状況や逃げ惑う市民の姿、いたいけな戦争孤児など、胸をしめつけられるシーンが多いが、私の注意を引いたのは、2枚の捕虜の写真だ。
 国連軍に収監された北朝鮮と中国の兵士たち。キャプションを読んで驚く。いずれも祖国への送還を拒んでいるという。胸をよぎったのが、「生きて虜囚の辱めを受けず」の、あの戦陣訓である(さすが」誌70号の〈昭和つれづれ〉にもある)。事情は異なるかも知れぬが、かの国でも、肉親との再会を心ならずも諦める兵士がいたのだ。戦争はいつの時代にも残酷だと、改めて感じたものである。
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