にぎはひ【殷冨・饒冨】
萩原義雄識
ここで、「冨」字研究の一環として『日本書紀』〔七二〇(養老四)年〕に於ける「冨」文字を検証するうち、和語「にぎはひ」の語例に「冨」文字が用いられいて、大系本、新日本古典文学全集共にウ冠「富」字表記するが、これまで述べてきたように、『日本書紀』においては四十一例全てがワ冠「冨」字であることを検証している。そこで、いま和語「にぎはひ」の標記語として「殷冨」と「饒冨」の二例が見えていて、このうち卷第十七の語例については小学館『日国』第二版に引用されていて、「農績(なりはひをうむ)ことを廃棄て殷富(ニキハヒ)に至る者か〔継体元年三月(前田本訓)〕を引用する。あと一例は、卷第十九に「饒冨」の語に「にぎはひ」と記載する。次に示す。
7145○況(いはむ)や厥(か)の百寮(つかさつかさ)、萬族(おほみたから)に曁(いた)るまでに、農績(なりはひをうむこと)を廢棄(す)てて、
殷冨(にぎはひ)に至(いた)らむや。〔卷十七〕
7662●大(おほ)きに
饒冨(にぎはひ)を致(いた)す。〔卷十九〕
さらに、この箇所を精確に見定めておくと、慶長二年版『日本書紀』では、
殷冨(サニ(と)メリ) 〔慶長二年版卷第十七14ウ8〕
饒冨(ニギハヒ)コトヲヿヲ 〔慶長二年版卷第十九01ウ4〕
とあって、標記語「殷冨」には和語「にぎはひ」の付訓は見えず、「さ(かり(ん))にとめり」と訓読する。因みに、新日本古典文学全集「日本書紀2」3冊〔二九四頁〕では「殷富(インフ)」と音読みして記載し、その注記は未記載にする。
これに対し、標記語「饒冨」には「ニキハヒ○コトヲ/ヿヲ」として、当該の和語「にぎはひ」を付訓している。此の点だけで判定するのは危ういことやもしれないが、『日国』の語用例は「饒冨」の語例を引用した方が見極めやすいのではないかと見ている。そして、『日国』第二版引用の標記語「殷冨」についても見定めておくと、
殷冨(ニキハヒ) 〔前田本卷第一七〕
とだけ、付訓していて、写本「冨」字の形状に分解字にしたとき、「冖+コ+田」と特徴が見えている。『日国』第二版では見出し語「インプ【殷冨】」の初出語例では『続日本紀』〔宝亀一一年〔七八〇(宝亀一一)〕三月辛巳の条に、「仍点下殷富百姓才堪
二弓馬
一者上、毎
二其当番
一、専習
二武芸
一」を引用する。此處も尾張蓬左文庫蔵『続日本紀』卷三十六〔五・八木書店刊影印資料〕で見定めておくと、
仍點
殷冨百姓/才堪弓馬者、毎其當番、専習武藝〔五冊・一八頁9〕
とあって、やはりワ冠「冨」表記であって、傍訓は未記載となっている。
ここで、時代は降るが明治時代の徳冨蘇峰著『将来の日本』のなかで、
○頼襄が、いわゆる光仁・桓武の朝、彊埸(きようえき)多事、宝亀中、廷議冗兵(じようへい)をはぶき、百姓を
殷富(インブ)にす。才、弓馬に堪うる者は、もっぱら武芸を習い、もって徴発に応ず。その羸弱(るいじやく)なる者みな農業に就く。
とあって、当に『続日本紀』の文言を活用して記載する。ここでは、蘇峰は「インブ」と音訓みしている。また、島崎藤村も『千曲川のスケッチ』のなかで、
○中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾(のれん)と対照を成して土地の気質や
殷富(とみ)を表している。
として「殷冨」の語に和語「とみ」を記載する。
《補助資料》
小学館『日本国語大辞典』第二版
にぎーわい[‥はひ]【賑】〔名〕富むこと。豊かになること。また、にぎやかであること。にぎあい。*日本書紀〔七二〇(養老四)〕継体元年三月(前田本訓)「農績(なりはひをうむ)ことを廃棄て
殷富(ニキハヒ)に至る者か」*将門記承徳三年点〔一〇九九〕「往還の物を奪ひて妻子の
稔(ニキワヒ)と為し、恒に人民の財を掠めて従類の栄と為す」*日葡辞書〔一六〇三(慶長八)〜〇四〕「
Niguiuai (ニギワイ)〈訳〉人々が大勢いてにぎやかであること」*浮世草子・新色五巻書〔一六九八(元禄一一)〕一・一「世を宇治俵の茶作とて、此一村の
にぎわい」*随筆・北越雪譜〔一八三六(天保七)〜四二〕初・中「此初市の日は繁花の地の
喿饒(ニギハヒ)にもをさをさ劣ず」【方言】(1)祭りや開校式などに練り出すにぎやかな出し物。《にぎわい》島根県725《にぎおい》島根県出雲・那賀郡725(2)余興。《ねぎわい》富山県390(3)にぎやかな催し物。《にぎゃあかあ》東京都三宅島333【発音】 ニギワイ〈なまり〉ニギアイ〔NHK(熊本)〕ニギャイ〔NHK(三重)〕ニギヤイ〔紀州・和歌山県・NHK(佐賀・熊本)〕〈標ア〉[ワ]〈京ア〉[0]【辞書】名義・伊京・日葡・言海【表記】【稼・慶】名義【贍・賙】伊京【賑】言海
いんーぷ【殷富】〔名〕(形動)(「殷」は、さかんの意)富み栄えること。豊かなこと。*続日本紀ー宝亀一一年〔七八〇(宝亀一一)〕三月辛巳「仍点下
殷富百姓才堪
二弓馬
一者上、毎
二其当番
一、専習
二武芸
一」*本朝無題詩〔一一六二(応保二)〜六四頃〕三・遇雨聊述鄙懐〈藤原周光〉「竹竿糸下願非
レ佗、一事是思
殷富多」*篁園全集〔一八四四(弘化元)〕一・二月十一日蕉園招飲席上分賦十二体得七言古韻侵「賃
二屋城東
殷富窟
一、一壺容
レ身即山林」*文明論之概略〔一八七五(明治八)〕〈福沢諭吉〉五・九「外は兵馬の冗漫、内は宴楽の奢侈を尽して、尚金馬の貯あるは、下は貧にして上は
殷富(インプ)なる時節と云ふ可し」*日本開化小史〔一八七七(明治一〇)〜八二〕〈田口卯吉〉一・二「此柔弱の人々
殷富を増し、盛大なる朝廷の上に趨走するに至りても」*淮南子ー人間訓「家充盈
殷富、金銭无
レ量、財貨无
レ貲」【発音】〈標ア〉[イ]
じょうーふ[ゼウ‥]【饒富】〔名〕(形動)豊かに富んでいること。財産
が豊かにあること。また、そのさま。富饒。*漢書ー王〓伝・下「欲
レ視
二饒富一、用怖
二山東
一」【発音】ジョーフ〈標ア〉[ジョ]
にょうーふ[ネウ‥]【饒富】〔名〕(形動)ゆたかに富んでいること。また、そのさま。
じょうふ。




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